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みんな違ってみんな良い

私は小学校低学年の頃まで、嫌いな友達、人がいなかった。

本当に、本当にみんなのことが好きだった。

それが、高学年になってある友達に

「誰が嫌い?」という質問をされた。

「嫌いな子?いないよぉ〜。」本当にそう思っていた。

でもそこで問題勃発。

「けいちゃんは嘘つきだ。本当のことを言ってくれない。」

となり、しばらくその友達から無視された。

ものすごく辛かった。

だって、本当のことを言ったのにそんなふうに言われて。

その後「なんで私は嫌いな人がいないんだろうか。」

と悩んだりもした。

でも、そのうち「この人嫌い!」と自然と思うようになった。

まぁ、当たり前というか普通のこと。

それが大人になって今度は、

「なぜ私は全ての人を好きになれないのだろう。」

と思うようになっていた。

「自分はなんて心が狭いのだろうか?」と。

それが、先日たかみさんのヴェーダンタのレッスンを受けていた時に

「人だもの好き嫌いはあって良いのだよ。

 ただ、その存在を受け入れていれば。」

と言われた。

この言葉、私にとってはすごく心が軽くなった。

全てを好きでなくても良いんだ。

ただ、自分の中で疑問も。

“なぜ私は小さい時はそれができていたのか?”

考えてみた。

答えではないけれど、思ったことが。

小さい頃は、全ての人が私のことを好きでいてくれていると思っていた。

今思えばすごく幸せ者だと思う。

だから、私もみんなが好きだった。

また、小さい時特有の(私だけか?)

「自分は自分、人は人」が確立していた。

小さい時って「〜ちゃん、〇〇して遊ぼ!」

「私は△△して遊ぶから。」

「そうなの。わかった。」で、話が済んだ。

その子は別にやりたいことがあるのだから、それをしたら良い。

一緒に遊びたい時には遊べば良い。

私も相手も自分に正直な状態。

お互いの存在を認められていた、というか尊重できていた状態だったのだ。

Photo by Duy Pham on Unsplash

それがたかみさんのいう存在を受け入れるだよな。

小さい時はできていたんだ。

なのに、歳を重ねるごとに、余計な感情をプラスさせてしまい、

自分が好きか嫌いかという以上に、

存在さえも否定してしまっていたのか。

「みんな違ってみんな良い」

正にそうなんだろうな。

chezbeateによるPixabayからの画像

子供ってすごいわ。

それが自然とできてしまっている。

宇宙での教えの方が地球での教えよりも慣れているからなのかな?

わからないことは、子供に聞いたら良いね(笑)

『宇宙の真理=ヴェーダンタ』を

もっともっと知りたくなった。

そして、いつか伝えられるようになれたらな。

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